働くということ
平岡は問う。「何故働かない。」代助は答える。「何故働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。」(夏目漱石『それから』)
ニートと呼ばれる人々がいる。ニート(NEET)とは、Not in Education, Employment or Trainingの頭文字をとった用語であり、学校に通っているわけでも仕事をしているわけでもなく、さらには進学や就職のための準備をしているわけでもない人々、ことに若者たちをさす言葉である。ニートはもともと1990年代末のイギリスで生まれた言葉だが、日本でも近年このニートと呼ばれる若者たちが社会問題と化しつつある。
平岡は言う。「君は金に不自由しないから不可ない。生活に困らないから、働く気になれないんだ。」代助は答える。「働くのも可いが、働くなら、生活以上の働きでなくちゃ名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんなパンを離れている。」(夏目漱石『それから』)
ニートには収入がない。にもかかわらず、かれらが暮らしていけるのは家族の収入に頼っているからである。家族ことに両親のスネをかじりつづけることによって、ニートの生活はなりたっている。ニートは、いまのところ金に不自由していないし、生活にも困っていない。だからこそ、働かない。けれども、それが働かない理由のすべてであるというわけではない。
ニートが働こうとしない理由で多いのは、次のようなものである。「人づきあいなど会社生活がうまくやっていける自信がないから」、「自分の能力・適性に合った仕事(向いている仕事)がわからないから」、「希望する就職先がみつからなかったから」、そして「なんとなく」(玄田有史・曲沼美恵『ニート』)。ニートは、自信を喪失し、自分を見失い、将来を諦めている。ニートは働きたくないわけではない。かれらは、将来にたいする絶望と失望に苛まれ、働きたくても働けないのである。かれらが働かないのは、自分の未来にたいする希望がないからなのである。
高度成長期の「希望」は、誰でも持つことが出来た。しかし、現代社会においては、希望は、誰でも簡単に持てるものではなくなっている。希望をもてる人ともてない人、その格差が歴然とひらいているのである。(山田昌弘『希望格差社会』)
人はなぜ働くのか。ひとつには、もちろん生活のためである。働かなければ収入を得ることができず、生きていくことができない。生きるためには働かなければならない。しかしながら近代社会ないし現代社会において仕事は、たんなる生活のための手段ではなく、個人のアイデンティティの重要な部分を占めており、生きる目的そのものとみなされる。やりたいことをやるとか、なりたいものになるといった言説が仕事の選択にはつきものであり、したいことをしなければならないという矛盾に満ちた圧力が暗黙のうちに個人を規制している。
世間は働くことを要求する。けれども世間はまた、したいことをせよとも命ずる。したいことができるなら、なんの問題もない。しかし、やりたいことができ、なりたいものになれる人は、ほんの一握りにすぎない。医者になりたくとも医学部に入れる人は限られているし、弁護士になりたくとも司法試験に合格するのはごく少数である。プロ野球選手やプロサッカー選手になりたくても、あるいは漫画家や声優になりたくても、実力のない者はどんどん切り捨てられていく。
なりたいものになれる人は限られている。にもかかわらず、なりたいものになろうとする人を受けいれるパイプは過剰に氾濫している。2006年の新司法試験合格者は500人から1200人ほどとされているにもかかわらず、2004年の法科大学院入学者は5700人を越えている。また博士号取得者ですら毎年7000人ほど余っているにもかかわらず、文系にせよ理系にせよ大学院への入学はどんどん容易になっている。さらには、通っているからといってマスコミに入れるわけでもないマスコミ塾や、卒業したからといってアニメーターやミュージシャンになれるわけでもない専門学校などが、巷には溢れている。メディアは、夢を実現した人たちに、夢はかならず叶うと語らせる。
したいことができないかもしれないと思っても、諦めるのは難しい。したいことをしなければならないという世間のプレッシャーと、したいことができるかもしれないと囁く社会制度に、つねに晒されつづけるからである。現在、多くの若者が、したいことと働くこととの狭間で迷い、もがいている。大切なのは、したいことをしなくてもよいという悟りなのかもしれない。
「なぜ働くの。」富田さんは親しくなった現地の人々に聞いて回った。答えは口々に「家族のため」「生活のため」。その単純さが新鮮だった。今までは「仕事をするなら好きなことを」と考えすぎていた。「悩まず、仕事していいんだと気が楽になった。」(東京新聞2005年1月10日朝刊)
生活のために、したくない仕事をする。それはけっして否定されるべきことではなく、むしろすすんで肯定されるべきことである。「生活の為の労力は、労力の為の労力ではない」といってみたところで、けっきょく代助も「僕は一寸職業を探して来る」といって外に出ていかざるをえなくなる。いかに社会に絶望し、どれほど世間に失望しようとも、人はやはり生きていかなければならない。売れっ子のコメディアンやミュージシャンになるとか、王子様のような高収入の男と結婚するといった夢想に、いつまでも頼っているわけにはいかない。日本で生きていこうとするのなら、どこかしらで世間と格闘せざるをえない。その格闘のなかで、みずからの希望を描いていくよりほかにない。たとえ、したいことをできることに変えていけなかったとしても、すべきことをしたいことに変えていくことはできるはずだ。そこに希望を刻み込んでいく以外に、日本で生きる術はない。したいことをしなくてもよい。夢はかならず叶うわけじゃない。その悟りを胸に秘めつつ働いていけば、おのずと新たな希望が描けるのではあるまいか。ニートに必要なのは妥協する勇気なのである。
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コメント
大変興味深く読ませていただきました。私はとある大学の教育学部に所属している者です。したくない仕事をせずに、やりたいことを! というメッセージが数多く発信されつつも、それがかなえられるのは多くないという現状…。生活のための仕事、というひとつの答えを考え直す必要がありそうですね。
投稿: kaz. | 2005年10月25日 12時33分
>> kaz.さん
コメント、ありがとうございます。
ちょっと青臭いことをいいますけど、人っていうのは、したいことと、すべきことと、できることのバランスをとりながら生きているんだと思います。したいことをするっていうのも大事ですが、できることやすべきことをしていくというのも、同じくらい大切なのではないでしょうか。どんなに成功しているようにみえる人でも、したいことをしているとは限りません。むしろ、自分にできることや自分のすべきこととしっかり向きあっている人のほうが、成功しているようにもみえます。
人にとって、権利は平等であるべきですが、能力は平等ではありえません。悔しいですが、したくてもできないことなんて山ほどあります。けれども、したいことができないからといって、その人に価値がないというわけではありません。できることやすべきことをしていくというのも立派なことです。したいことをするというのは、あくまで選択肢のひとつにすぎません。
生活のための仕事というのは、したくないことなのかもしれませんが、すべきことでもあり、またできることでもあります。したいことをするという選択肢のうえで失敗したとしても、すべきことやできることをするという選択肢のうえでなら成功できるかもしれません。さらには、すべきことやできることが、やがてしたいことになっていくことだってあるでしょう。自分ってのは、つねに変わりつづけていくものですから。
投稿: oceans | 2005年10月29日 07時46分
oceansさんの言葉はとても心に響きました。
私は、「働くという事」そして「生きる事」の意味を見失っていました。
私は、仕事がどうしても長続きしません。
仕事場の人間関係が怖くてたまりまらないのです。
世の中には、いろいろいますから仕方ないし、自分の思う通りにはいきませんよね。
どうすれば、人間関係をうまく割り切ってやっていけるのでしょう。oceansさんは
職場の「人間関係についてどう思いますか?早い返答をおまちしています。
よろしお願いします。
投稿: heart | 2008年5月30日 01時54分
ありがとうございます。
投稿: キダ | 2009年3月 2日 22時50分